【コラム/9月23日】新総裁・新首相選びを考える

2020年9月23日

新井光雄/ジャーナリスト

SNSとかいう手法での情報交換が当然の時代らしい。しかし、その弊害で書き込みとかいうものの誹謗中傷が社会問題になってきているようだ。ほとんどタッチしたことがなく、時にそれらしきものをパソコンで見てしまう時もあり、巷のヘイトスピーチと同じように読むに堪えないような表現にであう。自殺者まで出ているというから大きな社会問題なのだろう。簡単にいえばごく普通の庶民が発言の場を持ったという意味ある側面もあるのだろうが、そのルールが全く未成熟ということなのだろうか。

 そこで長い文筆活動で時々、批判めいた文章を書いた時に、自分にそれを書く資格のありやなしやを問う場合があった。「お前にそれを言われたく」。そんな意見に反論できるかどうかだ。難しい。職業として当然といってしまえばそれまでだが、そうもいかない。個人の受け止め方の側面がある。朝、テレビを見ていて放送局のキャスターとか放送記者が傲慢な社会批判を展開しているのを聴くと、「お前にそれを語る資格があるのか」と問い返したくなる。今はその問返しがSNSで簡単に出来るらしい。やったことはないから、その方法などは知らないのだが、物書きをしていると、時にその種の批判に多少はさらされ嫌な思いをする。根本は無名性の批判で、反論ができない。それを承知で相手は書き込みとかをしているのだろう。手に負えない。規制は言論を自由に注意しつつも必要と思う一人である。

 こんな話しを前提にしたうえで以下の話しだ。自民党の新総裁が決まり、結果、新首相も。総裁選はちょっとした茶番だった。どこかヤクザの親分がそれぞれ一党を率いて蠢いたと感じた。余りに民主的ではない。疑問なのは国会議員がここまで集団化しないといけないのだろうか、という疑問だ。選挙民は国会議員が個性を捨てて集団化することを望んでいるのだろうか。自由に立候補して、自由に投票してみてはどうか。推薦人とかも無用に思える。

なぜそれが出来ないのだろう。議員が個人でないところが余りに日本的。企業の派閥もあそこまで露骨ではない。何となく程度だ。 それが総裁選では露骨も露骨の集団行動。それを当然とする領袖とやらも、言えた義理ではないと承知で当方、品格に欠くと言いたい。大臣の椅子を狙う烏合の衆。気分がよくない。SNSの匿名ならば罵倒したいところだ。SNSの問題のありかが分かる。一挙に領袖の名前を出しての罵詈雑言で批判してしまうのかもしれない。  ともあれウンザリの新首相誕生劇だった。菅新総裁・首相は安倍政治の踏襲というから期待は全くないのだが、救いは「家業」でなく田中首相以来のタタキ上げ派だそうで、そこだけは素直に評価しておこうとは思う。 これも誹謗の書き込みだろうか。

【プロフィール】 元読売新聞・編集委員。 エネルギー問題を専門的に担当。 現在、地球産業文化研究所・理事 日本エネルギー経済研究所・特別研究員、総合資源エネルギー調査会・臨時委員、原子力委員会・専門委員などを務めた。 著書に 「エネルギーが危ない」(中央公論新社)など。 東大文卒。栃木県日光市生まれ。