【北神圭朗 有志の会 衆議院議員】「平和で豊かな日本を次世代に」

2022年4月11日

きたがみ・けいろう 1992年京都大学法学部卒、大蔵省(現財務省)入省。2005年衆院議員。拉致問題特別委員会筆頭理事、経済産業大臣政務官、内閣府大臣政務官(原子力損害賠償支援機構担当)、首相補佐官などを歴任。

湾岸戦争での日本のあいまいな対応をきっかけに、「祖国に貢献したい」と政治家を志す。

幼少時から米国に長く滞在するが、政治活動の底流には「日本人の魂」がある。

 「北神さんは腰が低いなあ」。大蔵省の調査企画課(当時)に勤めていたときのこと。ある大手都市銀行からの出向者に、こう言われたことがある。調査企画課には、金融機関から10人ほどが出向し、職員と机を並べて働いていた。いずれも優秀な銀行マン。だが、大蔵省のキャリア官僚から見れば、「民」の人たち。尊大な態度に、眉をひそめる出向者もいた。

しかし、北神圭朗氏には、そもそも相手の所属や地位で対応を変えるという意識がなかった。米国滞在18年の帰国子女、京大法学部、大蔵省、衆議院議員―。絵に描いたようなエリートコースをたどる。だが、生い立ちや国会議員になるまでの経緯などを聞くと、経歴から思い浮かぶエリート像とはかけ離れた政治家の姿が浮かび上がる。

1967年、まだ1ドル360円の時代。父・泰治氏は夫人と生後9カ月の圭朗氏を連れて米国に渡った。大企業から派遣されたわけでも、就職口の保証があったわけでもない。高いドルを稼いで、日本に戻って一旗揚げる―。そんな考えだけの、やや無謀な渡米だった。

決して治安良好とはいえない加州ロサンゼルスのダウンタウン。ここに住居を定め、日本からボルトやナットを仕入れて販売する事業を始める。米国のネジ業界は、コネもないアジア人がすぐに入り込める世界ではなかった。差別的な発言は日常茶飯事。売掛金の回収に赴き、拳銃を突き付けられたことも。そんな体験を重ねながら、ビジネスの足場を築いていった。

一方、圭朗氏は米国での暮らしが水に合った。小学校から成績は常にトップクラス。自由で個性を重視する米国で、充実した学園生活を送る。そんな圭朗氏にも、週に一度、気持ちが沈むことがあった。ロサンゼルス郊外に日本人のための補習校、朝日学園がある。通うのは主に米国に赴任した企業人の子女。泰治氏は土曜日、この学園に通うことを子供たちに義務付けた。「お前、漢字もろくに書けないのか」。現地の学校のクラスメートの視線から一転、朝日学園では日本人生徒から見下される存在に。気が付くと、劣等生のレッテルを貼られていた。

やがて問題児扱いになり、教師は両親を呼び、「周りの子供たちに迷惑。無理に通わせることはない」と退学を勧告。しかし、泰治氏はやめることを許さなかった。日本人としての自覚をなくしたら、自分たちは根無し草になってしまう―。激しい差別や不条理に向き合って痛感した「日本人の魂」を持つことの大切さ。それを子供たちにも、しっかり胸に刻んでほしかった。

自民党の強固な地盤で立候補 選挙で鍛えられ役に立つ政治家に

帰国し京大に入学。湾岸戦争での日本のあいまいな態度に違和感を覚え、「自分も祖国に貢献できる」と考え始める。前原誠司氏(現国民民主党代表代行)の選挙応援などをしながら、政治の道に進むことを決心。「そのためには、まず財政の勉強」と大蔵省に入る。約10年間、官僚として働き、2003年、民主党公認で衆議院選挙に出馬した。

選挙区は、自ら京都4区を選んだ。野中広務元自民党幹事長が7回当選を重ねた、強固な自民党の地盤だ。「初陣」は野中氏の後継者を相手に落選。それから選挙での戦績は四勝四敗(参議院選一敗、衆院繰り上げ当選を含む)。楽な選挙は一度もない。だが、4区を選択したことを後悔していない。「政治家の仕事は人に動いてもらうこと。この選挙区で人間が鍛えられれば、役に立つ政治家になれる」。民主党が大敗した12年を除き、選挙のたびに1万票ほど得票数を増やしている。21年の総選挙では、自民候補に約1万6000票の差をつけて当選を果たした。

11年9月、野田内閣の経済産業大臣政務官に就任。真っ先に取り組んだのは、原発の再稼働だった。福島第一原発事故を受けて関西電力の原発が停止し、近畿圏の電力需給は危機的な状況に陥る。停電回避に大飯原発の再稼働が欠かせなかったが、枝野幸男経産相も経産官僚も原発事故で委縮、腰が重い。そのため自ら周辺自治体の首長との交渉を行い、強硬に反対していた橋下徹・元大阪府知事とは直談判。「暫定的な再稼働」とすることで了解を得た。

いま最大の課題は、人口減少に歯止めをかけることだ。全人口に占める現役世代が減り始め、このままでは国力は衰退の一途をたどる。先祖が築いた平和で豊かな日本を次の世代につないでいく―。強い信念を持ち、少子化対策などに取り組んでいる。

かばんには折口信夫の『口訳万葉集』をしのばせている。時折ページを開き、劣等生として過ごした朝日学園での日々を思い返すという。